コラム・インタビュー

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コラム

創薬の新しいトレンドを作る「患者力」とISPACOSの歩み

1. はじめに:

 薬を創成するビジネスは、コストがかかり、長期の取り組みを要し、さらにリスクが高いため、巨大企業のみが成功すると言われる中で、ミドルサイズの企業やベンチャー企業が大健闘しています。実際のところ、物としての薬のシードは限られていても、実際に使われる現場で薬がどのように役立つかを考えれば、新しい薬への要望は山積していて、それに応えればブレークするのだと思われます。市販薬であっても、医師が選んで処方する処方薬であっても、薬のエンドユーザー、カスタマーは患者です。しかし、薬の世界ではカスタマー・サティスファクションは現在でもまだまだ十分に達成されていません。そこで本稿では、がんの治療薬に焦点を絞り、患者の声を、臨床現場の医師、看護師、薬剤師だけでなく、創薬開発の現場、創薬科学の最先端、薬の許認可に関わる行政などとのつながりを強化することで、より患者中心の治療を追求しようと、これまで5回の国際シンポジウムを開催するなどの活動を行っているISPACOS(International Society of Patient-Centered Oncology Science:患者に優しいがん医療サイエンス)について紹介します。

2. がん治療薬の進歩は、特に21世紀に入って著しい

 ゲノム解析に基づくがんの治療薬である「分子標的治療薬」が開始されたのは2001年のことで、その年にイマチニブが我が国でも承認されて販売が始まりました。HER2陽性乳がん治療薬としてトラスツズマブが承認されたのも同じ年でした。その後も治療薬の開発は続きましが、特に乳がん領域では過去約3年の間に画期的と言える新薬が相次いで承認されました。PARP阻害剤、CDK4/6阻害剤、およびこれまで用いられてきた抗HER2抗体に強力な抗がん剤をがん細胞内で遊離されるようにデザインしたものです。
 がんの治療薬に限らず、新薬が承認され、販売が許可される最も重要な要件は「有効性と安全性」が既存の医薬に勝ることです。がんの治療薬の場合は、多少乱暴な言い方を許していただけるなら、この疾患が生死に関わるものであるゆえ、有効性とは生存率を改善するもの、安全性とは副作用が生死に関わる結果を招かないこと、と言う判断基準が広く使われてきたと言って良いと思います。しかし、新薬の導入による治療効果の改善そのものが、新たなデマンドを呼び起こしています。その理由は、より良い日常生活を送りながら治療を受けたいと思う患者が増えてきたからに他なりません。特に乳がんでは、他のがんに比べて比較的若い年齢に最初の発症のピークがあり、その世代ではたとえ治療中であっても仕事や子育てに全力を傾けたいと願うのは当然かと思われます。
 この状況を薬の開発、承認、適切な使用、という観点から見ると、いくつかの重要な点が浮かび上がります。一つには、現在既に使われている薬についても、実際にどの程度効いているのか、どの様な副作用が出ているのかについて、きめ細かな観察と対応が必要だということです。個体差がある場合、遺伝子の多型に基づく可能性も、同時に投与されている他の薬との相互作用による可能性も十分にあります。もう一つには、現在開発中の新薬においても従来から必ず行われていた病理学や毒性学的なアプローチでは見えてこない副作用にも開発のあらゆる段階で注目する必要があると思われることです。この様な新しい流れに呼応する「薬の適正使用」や「画期的な薬の開発」には薬の関係者、特にこれまでは臨床から少し距離を置いていた創薬研究者や医薬品の規制に関わる人々が、患者からの声に耳を傾ける機会を飛躍的に増大させることが必要と思われます。

3. ISPACOSの成り立ち

 患者にやさしいがん医療サイエンス(ISPACOS: International Society of Patient-Centered Oncology Science)は、患者とその家族、医療に携わる多職種の人々、企業で健康に関わる業務に従事する人々、科学者とりわけ創薬研究者、医薬品医療機器の規制と承認に関わる行政担当者などが、共通の言葉を使ってコミュニケーションを深め、より良い医療の実現のために共に歩むことを目指して、2018年に順天堂大学医学部乳腺腫瘍学講座の齊藤光江教授の呼びかけによって設立しました。当初から、この考えに賛同した上記の背景を持つ多様な人々が運営に参加し、手作りの集会を開いて来ました。会の概要はホームページ(https://ispacosj.wixsite.com/ispacos)に掲載されています。

4. ISPACOSがこれまで取り組んだこと

 ISPACOSの最初の会合が2018年12月29日に開かれ、その後は年に2回開いて、2020年11月28日にタイ・バンコクのチームを中心にウエブカンファレンスとして開いたのが第5回でした。これまでに開かれた第1回から第5回のプログラムも、上記のホームページに掲載されています。この誌面にも紹介させていただきます。第1回目のプログラムには長期的な展望とそこに到達するために必要なのは、関係する人々が立場を超えて連携し、コミュニケーションを深めることであるという、その後も変わらないISPACOSの活動のあり方が凝縮されています。

 第2回の会合では、がん闘病経験者の生の声が参加者の心を捉え、強いインパクトを持つことが改めて明らかになりました。このシンポジウム終了後の懇親会では、やはり闘病経験者から声が発せられ、薬局でがん治療薬が渡される際に、遺伝的背景を持つがん患者にのみ処方される薬の名前が公衆に聞かれてしまうことがあるという問題が指摘されました。これに関してはISPACOSから日本薬剤師会と日本病院薬剤師会に患者からの声として申し入れを行い、その結果注意喚起が全ての都道府県の薬剤師会に文書として届く結果になりました。第3回目の会合はタイのバンコクで開催され、名実ともに国際的な集まりになりました。この回に限らず、がん治療の国際比較はいつも新たな気づきを促します。
 2020年になり、新型コロナウイルス蔓延の影響を受けて、第4回と第5回はどちらも完全ウエブ開催とし、第5回の場合はバンコクと東京から同時配信としました。いずれも「新型コロナウイルス感染が蔓延する中での癌治療」というテーマに取り組み、リアルタイムアンケート調査を行って、その結果に基づいて総合討論を展開するなど、がん患者とその家族の声にも耳を傾けながらのシンポジウム進行が実現しました。

5. 今後の展望

 このように、患者力はISPACOSの集まりではよく見えています。一方、製薬企業や規制当局においても、patient-reported outcomeつまり「効き目を患者が評価する」という取り組みが既に始まっています。そのような流れの中で、ISPACOSは、「患者が本当に伝えたいことは何なのか」を共に考え続けています。もう一つとりわけ重要なのは、患者以外のメンバーが患者の声をサイエンスに立脚して受け止めることです。患者とその家族、医療に携わる多職種の人々、企業で健康に関わる業務に従事する人々、科学者、特に創薬研究者、医薬品医療機器の規制と承認に関わる行政担当者などが継続的に本音で語り合いながら、望ましい未来のがん治療薬を開発し、それを正しく有効に使うことが、今後ますます重要になっていくと考えます。これを少しでも迅速に、楽々と、進めるために役立ちたいというISPACOSの活動にご注目いただければ嬉しく思います。

2021年1月

順天堂大学大学院医学研究科
難病の診断と治療研究センター・糖鎖創薬研究室

特任教授 入村達郎

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